「好かれているということは、相手にことさら何もしてあげる必要はない。神経症気味の人はこれが分からない。何かことさらにしてあげなければ、好きになってもらえないし、好きになってもらっても、また捨てられると思う。好かれるということは、相手は自分に満足しているということである。何もしてあげなくても、自分と一緒にいることで満ち足りているということ。心の底で自分に満足していない者は、相手が単に自分といるだけで満足しているということが想像できない。そこでいろいろと無理をする。何らかの奉仕をしようとする。何か役に立とうとする。役に立とうとすることは悪いことではないが、役に立たなければ相手の好意をひきつづき保てないと思っていることが間違いなのである。そしてそう思っているがゆえにいつになっても相手と親密になれない。おそらく小さい頃自分にとって重要な人の役に立てば気に入られ、役に立たなければ拒絶された体験が尾をひいてしまっているのであろう。そこで大人になっても他人はみな同じであると錯覚している。そういう人は、今眼の前にいる現実の他人を見ていないのである。その眼の前にいる人を通して、小さい頃自分の周囲にいた大人たちを見ているにしかすぎない。自分が今いるところ、今接している人を見よう、理解しようという姿勢がない。今眼の前にいる人を理解しようとすれば、それらの誤解は一切なくなるはずである。神経症気味な人というのは、今眼の前にいる人を理解しようとすることよりさきに、その人から悪く思われないようにしようという防御的姿勢がさきにたってしまう。自分が自分を心の底で嫌っている人にとって、相手が自分を好きだと信じることは、何か違和感がある。そのように考えることになじみがないのである。どうもそのように感じることは自分にピッタリとこないのである。そう感じていても何か、ウソだろー、という気持ちになってくる。その感じ方に確かさがないのである。相手は今のままの自分を好きなのだと感じようとしても、その感じ方が何か頼りない。本当にそう感じて大丈夫なのかなという不安が残ってしまう。しかしそれは仕方のないことである。それは長年にわたって、自分は他人になにか奉仕した時だけ好かれるという感じ方をして生きてきたのだから。事実小さい頃には、他人に奉仕した時だけ満足されたのであるから仕方ないのである。小さい頃自分を偽ったり、自分を犠牲にした時だけ気に入られた人にしてみれば、大人になっていきなり、今のままの自分でも他人は好きになってくれると言われても、そう感じることはできないであろう。しかしやがてその感じ方のも確かさが出てくる。確かにそうだと感じられるようになる。自分が心の底で自分に満足していないということに気がつき、自分が自分に満足できるようになれば、他人もまた欠点のある自分に満足しているということが自然と感じられるようになる」

著 加藤諦三 自分に気づく心理学より一部抜粋