「目の不自由な人がスキーを教わっているところが映されていた。目が不自由であれば、歩くだけだって大変なことであろう。杖をついて、たえず周囲を確かめながら歩かなければ怖いだろう。ためしに目をつぶって広い野原を歩いてみれば、その怖さが分かるはずだ。もちろん目の不自由なことで他の感覚が鋭くなっていることもあるだろう。それにしても、あの広いゲレンデを目が見えなくて滑るということは、想像するだけで大変なことだ。スキーを教える人は、まず目の不自由な人にスキーの板を手でさわらせて、スキーなるものがどんな形をしているのか教える。次にストックにさわらせて、やはりどんな形をしているのか教えていく。目が見えないわけだから、それらのものは皆手でさわって、ああこんな形のものか、と理解しなければならない。それから靴をはいて、スキーを付ける。はじめはやはりこわごわとしている。ところが次第に上達していく様子がそのテレビでよく映されていた。目の不自由な人が山の上で子供に、今ここから何が見えるのか、と聞くところが何かとても感動的なシーンであった。子供が、遠くに山が見えて、木が見えて、といろいろ説明する。それを幸せそうに聞いている顔がとても印象的であった。子供にあたりの景色を聞き終わると、広大な雪のゲレンデを滑りおりていった。ところで一億円であなたの目を売ってくれ、という人があらわれたら、あなたは自分の目を売るだろうか。もし自分が貧乏だとか、車が買えないとか、バカバカしいことでグチをこぼしている人がいたら、自分の目をいくらなら売るかどうか考えてみて欲しい。自分の今言っている不平とか不服とかが、どれほど甘やかされた発言であるかに気がつくのではないだろうか。人間は事実によって不服になるのではない。事実をどう解釈するかのよって幸福になったり不幸になったりするのである。目が見えないというのはその人についての事実ではあるが、その事実がストレートに人間に影響を与えるわけではない。その解釈は自分がするのもので他人がするものではない。したがって人間は自分の力によってしか幸福にはなれない。周囲の人がどんなにがんばっても、その当人が自分についての事実の解釈を変えない限り幸福にはなれない。目が不自由であるということによって不幸になる人もいる。その人は目が不自由であるということを、幸福にとっての必要条件の欠如と解釈し、その解釈に負けたのである」

著 加藤諦三 一部抜粋