「昔、巨人軍に土屋という二塁手がいた。彼は追っても取れない球は追わなかった。土屋は天才である。このゴロは取れるか、取れないかがわかる。取れないゴロは追いかけない。そこでベンチに戻ると【なんで追わないんだ】とコーチや監督から怒鳴られる。土屋は取れないとわかっているものを追いかけて横ざまに倒れて見せるようなことはしない。しかしこの理屈は通っているようで、正常な歴史感覚を欠如した理屈にすぎない。つまりこの理屈は、何をやってもいつかは死ぬ、だから何をやってもバカらしい、という理屈につながっていく。死ぬことは死ぬ、しかし生まれてきたことも事実なのである。どうせやったって、という理屈は死ぬことに焦点があっていて、生まれてきたということに焦点があってない。【それなら君らは、どうせ吸ったって吐く息だから吸わないの?】と聞く。また練習中に監督が声を出せというと、内野のなかで土屋だけが黙っていた。監督が叱ると【ぼくは声を張り上げると耳鳴りがするんです】と答えたという。【声を出せ】という言葉は実に大切な言葉である。元気だから声を出すのではなく、声を出すから元気になるのだから。そういう気持ちの動き方が人間の気持ちの動きでなのである。その点が生きる基本的観点である。生きることに意味があるわけでもなく、意味がないわけでもない。意味があるという前提で生きることで、意味を感じることができるのが人間である。【声を出すより球を取ればいいんだ】という理屈は、やはりやがて【どうせ死ぬんだから何をやっても意味がない】という理屈までいってしまう。追って取れない球は追わないという考え方は、一般化して言えば、【やったって結果は分かってるじゃないですか】ということである。この言葉はよく聞く。【追ってみても取れない球は追わない】という態度は、合理的である。しかし個々の分野で合理的な態度であっても、集大成されて【生きること全体】として見ると、えらく非合理的なのである。個々の部分で合理的であることが、必ずしも全体として合理的であるとは限らない。【取れない球は追わない】という論理は正しい。しかし部分的な論理として正しいのである。部分的に論理的であることは易しい。難しいのは全体的に論理的であることである」

著 加藤諦三 一部抜粋