「他人を操作する人というのは、本当の自分の姿を他人には見せない。自分の統合性が完全にこわれているのである。実際の自分と他人に見せる自分との、二つの自分で生きている。二つの自分で生きていながら、自分で自分を尊敬できるわけがない。同時に自分に自信が持てるわけがない。他人から操作されている人は、自信がないから操作されているのであるが、他人を操作している人も、同じように自信がないのである。彼は正面から他人にぶつかっていけないから、他人を操作している。正面からぶつかっていって相手が実際の自分をどう評価するかを恐れている。彼は実際の自分に対する他人の評価に直面することを避けている。他人を操作する人は、操作しながらも、操作している相手を恐れている。操作というのは、される側もする側も恐怖に動機づけられているので、双方の成長を止めてしまうのである。操作される側は、相手に嫌われるのが恐いから相手に支配され、操作する側は、相手にはっきりと自分の望みを告げるのが恐いから、自分の望みを隠す。このように、歪んだ関係であればあるだけ抜け出しにくい。なぜなら、嫌われて見捨てられるのが恐いから。しかし、抜けだすための一歩は、とにかく自分の周囲にある関係が歪んでいることを自覚すること。そしてその歪んだ関係の中で、自分はつくられた自分であるからこそ、自己肯定感がないのだと知ることである。【あまり円きは転びやすし】という。自分の決断も解釈も相手にあずけてしまえば、その関係は一見うまくいく。その時はまるくおさまる。しかし、自分の内面の犠牲においてなされている以上、どこかに人格のひずみがでる。そしてまちがいをおこす。ころびやすいのである」
著 加藤諦三 自信より一部抜粋