「生きていればトラブルは起きる。トラブルのない人生はない。したがって悪いことを上手く解決できるかどうかに人生はかかっている。そうした意味で、【許せない】という憎しみの感情をコントロールできるかできないかに人生はかかっている。憎しみにとらわれれば、我々の人生は最終的に破壊されてしまう。人生はトラブルの連続である。その一つひとつを解決していくことが人間の英知である。人は困難を乗り越えることで知恵がつく。自分を騙した人を憎んでいるうちはまだ地獄である。憎しみがなくなって、心が落ちついた時、はじめて自分が【地獄にいた】ということがわかる。地獄にいるうちは自分が地獄にいるということが分からない。そして、それを乗り越えて、はじめて自分を騙した人を心の中で断ち切ることができる。心底【あんな人はどうでもいい】と思える。無理なく【あの人は自分とは関係のない人】と感じる。感情的に離れることができる。現実の社会ではその人たちと接しないわけにはいかない。会社に行けばその人はいるかもしれないし、親族の集まりがあればその人に会わないわけにはいかないかもしれない。地域社会では顔を合わすことも多いだろう。しかしそういう人達と会っても心の動揺がない。心の中で【断ち切る】とはそういうことである。その人達がこちらの心に何の影響力ももてなくなる。おそらくもう一歩進むとキリストのようになるのだろう。つまり【汝の敵を愛せよ】である。心がやさしくなると、自分を騙した人が地獄にいることが分かる。そこでその人を可哀想と思い、その人が地獄から抜け出すようにと祈ることができるのだろう。しかしそこまでは普通の人間には無理である。なかなかできない。自然とそうなるのは良いが、努力してなろうとすれば逆に無理が生じる。普通の人間にできるのは、憎むのが馬鹿らしくなるというところまでであろう。つまりそのずるい人を心の中で断ち切るというところまでである。しかし、自分を騙した人のために祈らなくても、【あの人は可哀想な人だな】という気持ちにはなることはできる。そうすれば、自分を騙した人に対する悔しさがなくなる。それが【人間がやさしくなる】ということである。それが心のやさしい人が天国に生きているということである。やさしくなることで、騙した人の心の荒廃が見えてくるからである。自分を騙した人の心のすさみが見えてくる。自分を騙した人が不幸だということが見えてくる。そうすると憎むのが馬鹿らしくなる。もちろんいかに自分を騙した人の心の中が見えたからと言って、すぐに【悔しさ】が消えるわけではない。それには時間を要する。犬に嚙みつかれれば、痛いけれども、犬に対する憎しみはない。嚙まれたことで痛いし、治療費がかかるし、さまざまな不自由はあるが悔しいという感情に支配されることはないのと同じことである」
著 加藤諦三 どうしても許せない人より一部抜粋