「人生の重みとは大きく分けて2種類ある。いいかげんな生き方をしてきた結果、背負わされた重荷、つまりそれまでの人生の【つけ】としての重荷と、背負う人に充足感とか自信を与えてくれるような【重荷】と2種類ある。若いころから安易な道ばかりを選んできたがために生きるのが辛くなっている人もいるだろう。自分を鍛えることをしないで生きてきた人は、ある年齢で心理的、社会的に挫折する。【悩みは昨日の出来事ではない】。長い人生の、いい加減な生き方の積み重ねの結果として人は悩むので、昨日何かあったから悩むのではない。悩みは今までの人生の垢みたいなものである。重荷が充実感や自信を与えない時には、それはたいてい人生の垢である。ただここで言いたいのは、主としてそうした人生の垢としての重荷ではない。生活の重荷というのがある。社会の中で生きないでカルト的な宗教に逃げたりする人も多い。修行という名前で生活の重荷から逃げているのである。日々の生活をきちんとするよりも、【真理、真理】と騒いでいた方が心理的にはずっと楽である。生活の重荷を背負う人は誇りを持つ。どんなに贅沢をしても親のすねをかじっているのでは、自分の生活に誇りを持てない。親に買ってもらった高級車に乗っていても、誇りは持てない。貧しくても自分が働いて生計をたてていれば、自分の生活をしているという誇りはある。あるいは、世の中にはどうしようもない親というものがいる。そんな親でも、その親の世話を逃げる子供と、高齢になった親の世話を引き受ける子供がいる。親が親の役割をしてこなかったのだから、子供が親の世話から逃げるのも、それなりに理由がある。しかしそれでも年老いた親の世話をする子供もいる。そしてその世話を引き受ける子供は表面的に見ると、損な役割を引き受けたようである。しかし実は損な役割ではない。そうした役割を引き受けることで自分に自信がついてくる。重荷を背負うから自分が何か大きなものにつながれているという感覚を持つのである。堂々としている人はたいてい重荷を引き受けている人である。人生の重荷から逃げた人は【良き一日】を持つかもしれないが、【悪い人生】になるに違いない」
著 加藤諦三 人生の重荷を軽くするヒントより一部抜粋