「食わず嫌いな人は、とにかく何でもいいから理屈をいわずに食べてみること。自己の世界と共同世界の裂け目を埋めるものは行動しかない。主張を捨てること。つまり、今までの主張というのは自分の存在の可能性の範囲を狭めていたものであり、その主張は単なる自己満足にすぎない。例えば狭い日本でゴルフなどやるのはもってのほかだ、上役と酒を飲むのはゴマスリで嫌だ、麻雀は徹夜で健康によくない、あそこまで付き合いをよくして出世などしたくはない、などいろいろと理屈はつくが、とにかく一切のこうした自分の主張を捨てることである。というのは、これらの主張が正しいとしても、その内容を主張している本人の動機は全然違っているからである。狭い日本でゴルフなどけしからん、と主張するのは、本当は自分がゴルフをできないであるからであり、酒をくだらないと主張するのは、本当は自分がつきあいが悪くて出世できないからであり、麻雀が健康によくないというのは、本当は自分が仲間とのつきあいを楽しめないからであったりするのである。自分の主張の内容が正しいということと、その主張をする動機の正しさとは関係がない。もし何かをしようとして止める理屈を見つけようとすればいくらでも見つかる。そしてその理屈がどんなに正しくても、自らの存在は狭められ、圧迫され、空虚化されていく。ゴチャゴチャいわずに、とにかく仲間と麻雀に行けばいいのである。私はコピーをするためにこの会社に来たのではない、などと言わずにコピーをしてみることである。例えば3ヶ月なら3ヶ月と期間を決めて、その期間は一切の理屈を自分に禁止して、与えられた役割を引き受けてみる。理屈は自己の世界と共同世界との裂け目が埋まってからでよい。去る者は日々に疎し、という。いつも接しているからこそ親しさが出るのであって、日常的に接しなくなり遠く離れてしまえば、何となく親しみも少しずつ減るということであろう。親しいから付き合いはじめるのではない。付き合うから親しくなるのである。食べる前に好き嫌いをいってはならない。だが、食べたあとは好き嫌いをハッキリさせること。行動だけが重苦しい世界から自己を引きずり出してくれる。人生が重苦しい人にとって理屈は裂け目を深刻化させるだけ。理屈が大切になるのは共同世界と自己世界の険しい対立が解消してからである」

著 加藤諦三一部抜粋